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大阪地方裁判所 昭和58年(ワ)6598号 判決 1988年6月22日

原告(反訴被告。以下単に「原告」という)

瀧健三

右訴訟代理人弁護士

下村忠利

三上陸

村田喬

被告(反訴原告。以下単に「被告」という)

武田一馬

右訴訟代理人弁護士

横清貴

久保慶治

主文

一  被告は原告に対し、本判決の確定した日から七日以内に、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞及びサンケイ新聞の各朝刊のいずれも全国版社会面に、別紙一記載の謝罪広告を、二段抜き一五センチメートル幅で、表題、宛名及び被告氏名を二号ゴシック体活字、その他の部分を八ポイントの活字をもつて一回掲載せよ。

二  被告は原告に対し、金三〇〇万円及びこれに対する昭和六二年一〇月九日から支払いずみまで年五分の割合による金員を支払え。

三  原告の本訴その余の請求及び被告の反訴請求をいずれも棄却する。

四  訴訟費用は、本訴反訴を通じてこれを一〇分し、その四を原告の負担とし、その余は被告の負担とする。

五  この判決は、第二項に限り、仮に執行することができる。

事実

第一  申立て

一  原告

1  被告は原告に対し、本判決の確定した日から七日以内に、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞及びサンケイ新聞の各朝刊のいずれも全国版社会面に、別紙二記載の謝罪文を、二段抜き一五センチメートル幅で、表題を一号ゴシック体活字、末尾の「武田一馬」及び「瀧健三殿」を二号ゴシック体活字、その他の部分を八ポイントの活字をもつて掲載せよ。

2  被告は原告に対し、金一〇〇〇万円及びこれに対する昭和六二年一〇月九日から支払いずみまで年五分の割合による金員を支払え。

3  被告の反訴請求を棄却する。

4  訴訟費用は、本訴反訴を通じて被告の負担とする。

5  2項について仮執行宣言

二  被告

1  原告の本訴請求をいずれも棄却する。

2  原告は被告に対し、金一八〇万円及びこれに対する昭和五九年一月二四日から支払いずみまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は、本訴反訴を通じて原告の負担とする。

4  2項及び3項の反訴訴訟費用負担部分について仮執行宣言

第二  主張

一  本訴

1  請求原因

(一) 原告は、昭和四二年三月島根大学教育学部を卒業し、昭和四二年四月から昭和四八年三月まで豊中市立上野小学校に、同年四月から昭和五一年三月まで同市立東丘小学校にそれぞれ教諭として勤務した後、同年四月から昭和五四年三月までの三年間、文部省及び大阪府教育委員会による在外教育施設教育派遣教師としてブラジル連邦共和国リオデジャネイロ市(以下「リオ」という)所在の日本人学校(以下「リオの日本人学校」という。)に勤務し、同月、帰国した後、同年四月に右東丘小学校教諭に復職し、昭和五六年四月から豊中市教育委員会の指導主事となり現在に至つている者である。

(二) 被告は、昭和四八年三月大阪教育大学を卒業し、門真市立四宮小学校、同市立第三中学校に教諭として勤務した後、昭和五五年九月から昭和五八年三月までの約二年半の間、原告同様に海外派遣教師としてリオの日本人学校に勤務した者であるが、右派遣期間中の昭和五五年一二月二七日、本邦に一時帰国し、その際、ブラジルからけん銃三丁と実包約一〇〇発(以下「本件銃包」という)を本邦に密輸入した。被告は、昭和五八年三月に帰国し、同年四月から門真市立第一中学校に教諭として勤務していたが、同年八月一六日、右密輸入に関し銃砲刀剣類所持等取締法(以下「銃刀法」という)違反罪など容疑で逮捕された後引続いて勾留され、同年九月五日までの間、身柄を拘束されたうえ大阪府警察本部などの取調べを受けた。

(三) 被告は、右身柄拘束中の昭和五八年八月二一日、午後二時ないし三時ころ、取調捜査官に対し、「被告は、昭和五五年一二月二〇日ころ、訴外望月雅臣(以下「望月」という)と一緒にリオのコパカパーナへ赴き、望月が本件銃包を購入し、望月から本件銃包を原告に手渡すように依頼されて、同月二七日ころ一時帰国の際これを本邦に密輸入した。滞日中の昭和五六年一月一〇日ころ、原告から大阪府寝屋川市内にある被告宅へ電話があり、被告は、同市内の喫茶店で原告と会つた後、同日午後一〇時三〇分ころ、被告宅付近の路上で、本件銃包を原告に手渡した。」旨の虚偽の供述をした。原告は、右被告の虚偽の供述により、昭和五八年八月二二日、大阪府警察本部捜査四課から任意出頭を求められ、これに応じて出頭し、右被告の供述については原告には全く身に覚えのないことであつたので右被告の供述事実を全面否認したが、右被告の虚偽の供述のみを根拠として、銃刀法違反罪などの容疑で同日夜逮捕され、翌二三日勾留された。そして、右原告に対する勾留は一〇日間延長され、結局、原告は、被告の前記虚偽供述のために同年八月二二日から同年九月一一日まで二一日間にもわたつてその身柄を拘束され、これによつて著しい精神的、肉体的苦痛を被つた。そのうえ、右被告の供述及び右供述に関して原告が逮捕、勾留された事実は、新聞、テレビなどで大々的に報道され、原告が長年小学校教師としてあるいは指導主事として培つてきた社会的評価は、著しく毀損された。

被告の右捜査官に対する供述の内容に鑑みれば、原告が右供述により逮捕、勾留された精神的、肉体的苦痛を被ることのありうることは、被告において予見可能であり、また、右供述内容並びに原告及び被告の職業に鑑みれば、被告の供述内容及びそれにより原告が逮捕、勾留された場合にその事実が新聞、テレビなどで広く報道され原告の名誉を毀損することは被告において予見可能であつた。

(四) 被告は、昭和五八年九月五日、処分保留のまま釈放されたが、その際、被告が拘置されていた大阪拘置所の門前で、待機していた報道陣に対し、「間違いなく被告がけん銃を密輸入し、昭和五六年一月一〇日ころの夜、寝屋川市内の路上で原告に手渡した。リオで世話になつたカメラマンの望月から原告に手渡すように頼まれた。原告は、指導主事の立場にあるから真実を言えず否認しているのだろう。」などと述べ、右発言をテレビや新聞によつて広く報道させ、そのため、原告が実際には被告からけん銃を受け取つているにもかかわらず罪を免れるために否認しているかの如き印象までを一般に与えられ、これにより、原告の前記社会的評価は一層侵害され、著しくその名誉を毀損された。

(五) 以上の被告の違法行為により原告が被つた精神的、肉体的苦痛及び社会的評価の低下による名誉侵害を回復するためには、被告が少なくとも申立て一項1記載の謝罪広告をし、そのうえで慰謝料として七五〇万円を支払うべきである。

また、原告は、自らの名誉の回復をするために本訴を提起し、真実を明らかにするためにやむをえず証人として望月をブラジルから本邦に呼び寄せて本件審理に証人として出頭させ、昭和六二年七月一四日、望月に対し、その旅費及び滞在費として、金一五〇万円を支払つた。

また、原告は、弁護士である本件原告訴訟代理人らに本訴の提起遂行を依頼し、弁護士費用として金一〇〇万円を支払わねばならない。

(六) よつて、原告は被告に対し、右名誉回復措置として、本判決の確定した日から七日以内に、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞及びサンケイ新聞の各朝刊のいずれも全国版社会面に、別紙二記載の謝罪文を、二段抜き一五センチメートル幅で、表題を一号ゴシック体活字、末尾の「武田一馬」及び「瀧健三殿」を二号ゴシック体活字、その他の部分を八ポイントの活字をもつて掲載することを求めるとともに、不法行為による損害賠償として金一〇〇〇万円及びこれに対する不法行為の後の日である昭和六二年一〇月九日から支払いずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

2  被告の答弁

(一) 請求原因(一)項のうち、原告が、文部省及び大阪府教育委員会から在外教育施設教員派遣制度による海外派遣教師としてリオの日本人学校に三年間勤務し、帰国後、豊中市立東丘小学校の教諭となり、昭和五六年四月、大阪府豊中市教育委員会の指導主事となつたこと。同(二)項の事実、同(三)項のうち被告が大阪府警察本部などによる取調べを受けた際、捜査官に対し、「昭和五六年一月一〇日ころ、原告から被告宅へ電話があり、同日夜一〇時三〇分ころ、寝屋川市内の路上で本件銃包を原告に手渡した。」旨の供述をしたこと、原告が、昭和五八年八月二二日夜逮捕され、翌二三日、勾留されたこと、原告に対する勾留が一〇日間延長され、結局、原告が、同年九月一一日まで二一日間にわたつてその身柄を拘束されたこと、同(四)項のうち被告は、同月五日に処分保留のまま釈放されたが、その際、被告が拘置されていた大阪拘置所の門前で、待機していた報道陣に対し、「間違いなく自分がけん銃を密輸入し、昭和五六年一月一〇日ころの夜、大阪府寝屋川市内の路上で原告に手渡した。リオで世話になつたカメラマンの望月から原告に手渡すように頼まれた。原告は、指導主事の立場にあるから真実を言えず否認しているのだろう。」などと述べたことは認め、その余の請求原因事実は否認ないし知らない。

(二) 被告が捜査官に対して供述したこと及び報道陣に対し述べたことは、真実である。このことは、被告と原告とはけん銃受け渡しの時を除いては面会したこともなく、単に、被告がブラジルに赴任する直前に電話で話をしたことがあるにすぎないのに、捜査段階におけるいわゆる面割の際、直ちに原告を特定することができたことから明らかである。また、被告は、原告に関する情報に接する機会などなかつたのに、原告が家を新築した事実を知つていたが、これは、被告が原告とけん銃受け渡しの際に聞いたからに外ならない。

3  被告の主張

(一) 被告は、リオの日本人学校に勤務中の昭和五五年一一月ころ、望月から「日本にある物を持つて行つてくれたら、日本への往復旅費を出してあげる。」との話を持ちかけられた。被告が持ち帰る物を確認すると、けん銃であるとのことであつたため、被告は、躊躇したが、望月から「公用旅券であるから手荷物検査を受けることはなく大丈夫である。心配なら他の先生に聞いてみなさい。」などと説得され、又当時ホームシックにかかり日本へ帰りたい希望が強く、同僚に聞いたところ、手荷物検査を受けないとのことであつたため、右望月の依頼を承諾した。

(二) 被告は、同年一二月二〇日ころ、望月がけん銃を購入するのに同道し、望月から、望月が購入した本件銃包を預かつた。そしてその際、被告は、望月から「日本へ帰つたら、このけん銃を豊中の瀧先生に渡してほしい。瀧先生から連絡があれば渡してほしい」旨依頼された。

(三) 被告は、同年一二月二七日、日本に一時帰国した。

翌昭和五六年一月一〇日午後九時三〇分ころ、被告の自宅に原告から電話連絡があり、被告は、京阪電車寝屋川駅付近の喫茶店で原告とその連れの男に会つたのち、同日午後一〇時三〇分ころ、被告の自宅である大阪府寝屋川市所在の高宮コーポ前路上で、原告とその連れの男に対し、本件銃包を手渡した。

4  被告の主張に対する原告の答弁

被告が、同年一二月二七日、日本に一時帰国したことは認めるが、その余の事実は否認する。

二  反訴

1  請求原因

(一) 原告は、被告を相手方として、本件本訴を提起した。右本訴は、結局、被告が捜査官や報道陣に対し、前記本訴における原告主張の供述をしたがそれが虚偽であり不法行為を構成するというものである。しかし、被告の捜査官や報道陣に対する供述は本訴における被告の主張のとおり真実を述べたもので、被告供述のとおり原告は被告からけん銃を受け取つており、原告は、自己の社会的信用及び地位の保全のため、ことさらに右事実を否認し、その否認を正当化するために不法にも本訴を提起したものである。被告は、右原告の本訴提起に応訴することを余儀なくされたほか、右本訴提起が広く新聞などにより報道されたため、被告が自己の刑責を軽減するために虚偽の供述をして無実の原告を事件に巻き込んだかの印象を世間に与え、これにより、被告の社会的評価は著しく低下し、被告は、精神的苦痛を被つた。

(二) 右苦痛を慰謝するために相当な金員は、少なくとも金五〇万円を下らず、また、被告は、弁護士である本件被告代理人らに本件本訴反訴の遂行を依頼し、着手金として金三〇万円を支払い、成功報酬として金一〇〇万円を支払うことを約した。

(三) よつて、被告は原告に対し、不法行為による損害賠償として金一八〇万円及びこれに対する不法行為の日の後である昭和五九年一月二五日から支払いずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

2  原告の答弁

原告が被告主張のとおりの本訴を提起した事実は認め、その余は否認する。

なお、被告の社会的評価は、そもそも被告がけん銃を密輸入した旨を捜査機関に対し供述し、これが広く報道されることによつてすでに低下しているものであり、原告の本訴提起により新たにそれ以上被告の名誉がき損されるわけではないし、また、原告は、本訴提起以前から一貫して被告供述が虚偽であることを主張してきたものであるから、本訴提起により新たに被告の名誉がき損されるわけではない。

第三  証拠<省略>

理由

第一本訴について

一原告が、文部省及び大阪府教育委員会から在外教育施設教員派遣制度による海外派遣教師としてリオの日本人学校に三年間勤務し、帰国後、豊中市立東丘小学校の教諭となり、昭和五六年四月、大阪府豊中市教育委員会の指導主事となつたこと、被告が、昭和四八年三月大阪教育大学を卒業し、門真市立四宮小学校、同市立第三中学校に教諭として勤務した後、昭和五五年九月から昭和五八年三月までの約二年半の間、原告同様、海外派遣教師としてリオの日本人学校に勤務したこと、被告が、右ブラジル派遣中の昭和五五年一二月二七日に一時帰国し、その際、けん銃三丁及び実包約一〇〇発を本邦に持ち帰つたことは当事者間に争いがない。

そして原告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、原告は、島根県で生まれ育ち、昭和四二年三月島根大学教育学部を卒業し、同年四月から昭和四八年三月まで豊中市立上野小学校に、同年四月から昭和五一年三月まで同市立東丘小学校にそれぞれ教諭として勤務した後、同年四月から昭和五四年三月まで前示のとおりリオの日本人学校に勤務したことが認められる。

又証人相沢公二、同林由紀夫の各証言、原告及び被告の各本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨によれば、被告は、大阪府からリオの日本人学校へ教師として派遣されていた訴外水谷益章(以下「水谷」という)が昭和五五年五月ころ現地で事故死したため、年度途中であつたが急拠派遣されたものであることが認められる。

二1  被告は、昭和五八年三月にブラジルから帰国し、同年四月から門真市立第一中学校に勤務していたが、昭和五八年八月一六日、銃刀法違反罪などの容疑で逮捕され、翌一七日に勾留され、右勾留が一〇日間延長されて取り調べを受け、右取調べの際、捜査官に対し、「昭和五六年一月一〇日ころ、原告から被告宅へ電話があり、同日夜一〇時三〇分ころ、寝屋川市内の路上で、本件銃包を原告に手渡した。」旨の供述をしたこと、原告が、昭和五八年八月二二日夜逮捕され、翌二三日、勾留されたこと、原告に対する勾留は一〇日間延長され、結局、原告は、同年九月一一日まで二一日間にわたつてその身柄を拘束されたこと、被告は、同月五日に処分保留のまま釈放されたが、その際、被告が拘置されていた大阪拘置所の門前で、待機していた報道陣に対し、「間違いなく自分が本件銃包を密輸入し、昭和五六年一月一〇日ころの夜、大阪府寝屋川市内の路上で、これを原告に手渡した。リオで世話になつたカメラマンの望月から原告に渡すように頼まれた。原告は、指導主事の立場にあるから真実を言えず否認しているのだろう。」などと述べたことは、当事者間に争いがない。

2  右事実、<証拠>を総合すれば、被告は、昭和五八年八月一六日午前八時半ないし九時頃、大阪府警察本部から被告の母親とともに任意出頭を求められ、被告が昭和五五年一二月二七日にブラジルから一時帰国した際にけん銃をブラジルから日本に持ち帰つていないか否かについての取調べを受けたこと、右取調べに対し、被告は、当初否認していたが、捜査官から被告の母親が被告がけん銃を持つているところを見たと供述していることをきかされ、けん銃を密輸入した事実は隠しきれないと判断して、同日の昼食をはさんで、「被告は、昭和五五年一二月、ブラジルのコパカバーナにおいて、望月を通じ本件銃包を二二万クルゼイロで購入してこれを日本に持ち帰り、神戸市内の暴力団山口組に売りに行つたが、このときは組関係者に後日連絡すると言われて一旦帰つたところ、昭和五六年一月一〇日ころ暴力団員から電話で連絡があり、この組員と会つたが、結局だましとられた」旨を供述したこと、捜査官は、右被告の供述のうち、けん銃の処分先について、素人の被告が全く面識のない暴力団事務所に突然売り込みに行つたとする点に疑問があるとして、被告に対し、原告を含め被告の親族や交友その他の関係者の個人名をあげて処分先を追及したこと、そのため、被告は、昭和五八年八月二一日、午後二時ないし三時ころ、取調べの捜査官に対し、「被告は、昭和五四年一二月二〇日ころ、望月と一緒にリオのコパカバーナへ赴き、望月から、望月が購入した本件銃包を原告に手渡すように依頼され、同月二七日ころこれを本邦に密輸入した。そして昭和五六年一月一〇日ころ、原告から被告宅へ電話があり、被告は、大阪府寝屋川市内の喫茶店で原告と会つた後、同日午後一〇時三〇分ころ、寝屋川市内の被告の自宅付近の路上で本件銃包を原告に手渡した。」旨の供述をしたこと、右被告の供述がなされるまで、捜査機関側は、すでに述べたように、ときには原告の名をあげて被告を追及することはあつたものの、原告のみを確定的に共犯者として被告を追及していたわけではなかつたこと、右被告の供述の日である昭和五八年八月二一日、原告に対する銃刀法違反罪などの容疑による逮捕状が発せられたこと、原告は、昭和五八年八月二二日、大阪府警察本部捜査四課から任意出頭を求められ、これに応じて出頭し、右被告の供述事実を全面否認したが、同日夜銃刀法違反罪などの容疑で逮捕され、翌二三日、勾留されたこと、右原告の勾留は一〇日延長され、結局、原告は、同年八月二二日から同年九月一一日まで二一日間にわたつてその身柄を拘束され、これにより、原告は、著しい精神的、肉体的苦痛をこうむつたこと、右被告の供述及び原告が逮捕された事実は、昭和五八年八月二三日付け朝日新聞(合計二面)、読売新聞(一面トップを含む合計三面)、毎日新聞(合計三面)及びサンケイ新聞(一面トップを含む合計三面)の各朝刊、同日付右各新聞の夕刊などに大々的に報じられ、その後も同月三〇日までは連続して、その後は断続的に連日各新聞紙上をにぎわせ、これによつて原告が長年小学校教師及び指導主事として培つてきた原告の社会的評価が著しく毀損されたことが認められ、右認定に反する証拠はない。

右認定事実とりわけ被告の供述と原告の逮捕の接着性によれば、原告の逮捕、勾留は、被告の前記供述に基づくところが大きく、被告の右供述がなければ逮捕、勾留はなされなかつたものであり、被告においてこのことは予見可能であつたこと、また、原、被告の職業からして原告が逮捕された事実が広く報道され、その際被告の供述が紹介されることがあることは被告において十分予見可能であつたことが推認できる。

三そこで、被告が捜査官に対し前記供述をしたことが原告との関係で不法行為となるかについて、検討する。

1 一般に、被疑者は、捜査機関に対し、供述を拒否する権利を有するけれども、供述する以上は真実を供述すべきものであつて、その場合はたとえこれにより第三者に損害を与えたとしてもその第三者に対し不法行為責任を負担することはないが、もし、自己の刑責を免れ、あるいは軽からしめる為、他人に罪を押しつけるような虚偽の供述をし、それによつて第三者に損害を与えたと認められるときは、その所為は第三者に対する関係で不法行為を構成し、当該第三者が被つた損害を賠償すべきものと解するのが相当である。したがつて、前項認定の被告の前記捜査官に対する供述により原告が逮捕勾留されて精神的、肉体的苦痛を被つたこと及びこれが報道されて原告の名誉がき損されたことについて、被告が原告に対し不法行為としてその損害を賠償すべきか否かは、被告の前記供述が虚偽であると認められるか否かによるものと解される。

2  そこで被告の捜査官に対する供述、報道陣に対する供述の真実性、即ち被告の主張事実の存否につき判断する。

(一) 証人相沢公二、同林由紀夫、同瀧多賀雄及び同望月雅臣の各証言、原告及び被告各本人尋問の結果によれば、望月は、リオ在住の日系ブラジル人で、フリーのカメラマンであり、日本語とブラジルの公用語たるポルトガル語の両方を話せるため、原告がリオの日本人学校に勤務するようになつたころ、すでにリオの日本人学校に出入りしリオの日本人学校の依頼により同校の入学式や運動会などの行事の際の写真撮影をし、又望月にとつては、ブラジルの日系社会においてリオの日本人学校と結び付いていることが重要であつたため、リオの日本人学校の教師の依頼により、フィルムの現像や焼き付け、あるいはリオ市内やその付近の案内、通訳等の世話をしていたことが認められる。

(二)(1) 成立に争いのない甲第八七号証、原告及び被告各本人尋問の結果によれば、原告と被告とは、従前、一面識もなかつたこと、原告は、後記認定の事情で被告がリオの日本人学校へ派遣されることを知り、昭和五五年九月ころ、大阪府学校教職員録で被告の住所及び電話番号を調べて自宅から被告宅に電話をしたこと、その際、原告は被告に対し、自己の勤務校、日本人学校に勤務していたことのあること、氏名を告げたあと、引つ越し荷物を送つたか否かを尋ね、これに対し、被告は、引つ越し荷物は送らず手荷物のみで訪伯する旨を答えたこと、そして原告は、望月、リオの日本人学校の事務員である訴外石切山森市(以下「石切山」という)、同校用務員の訴外高嶺辰彌(以下「高嶺」という)がいずれも日系人であり親切に世話をしてくれることを告げ、もし、引つ越し荷物を送られるのならその人達に土産物をことづけたいと思つていたが、手荷物のみで行かれるならそれは結構です旨話したことが認められる。

(2) <証拠>によれば、

(イ) 原告は、昭和四九年に、文部省の実施する在外教育施設教員派遣制度の採用試験に応募してこれに合格し、昭和五一年一月にリオの日本人学校に派遣されることが決定したが、派遣準備に関し、原告は事情に通じないため、前任者に電話で問い合わせたり、また、愛知県春日井市の訴外河原公宅をわざわざ訪問して現地の事情や引つ越し荷物として持参すべき物などについて尋ねたりするなど相当苦労してこれを行つたこと、

(ロ) 昭和五五年五月頃、大阪府からリオの日本人学校に派遣されていた訴外水谷益章(以下「水谷」という)が現地で事故死したため、豊中市教育委員会が原告に対し、現地の水谷の家族と連絡をとつて貰いたい旨の依頼をし、原告が、右依頼に応じたことがあつたが、そのこともあつて、原告は、年度途中で死亡した水谷の後任のことを気にかけ、原告が加入して積極的に活動していた大阪帰国教師の会(現大阪府海外子女教育研究会)の副会長であり、大阪府教育委員会に所属していた訴外土佐某(以下「土佐」という)に問い合わせたところ、土佐から、門真市立第三中学校に勤務していた被告が水谷の後任として派遣されることを知らされたこと、そこで原告は、原告と同じ大阪から派遣されるということや前示のとおり自己が派遣準備に苦労した経験から被告に電話連絡をしてアドバイスをし、あるいは又、いずれもブラジルで世話になつた石切山、高嶺及び望月に土産物をことづけたいと思い前示のとおり被告に電話をしたこと、ところが前示のとおり被告が手荷物のみで訪伯するとのことであつたため、原告は、被告が独身であると判断し、現地で世話をしてくれる人を教えれば充分と判断して前示のとおり望月らを教え、又荷物のみでの赴任なら土産物を託すのも無理と考えて土産物を託すのをあきらめたこと、

(ハ) 原告は、このような趣旨の電話を、被告に対してだけではなく、大阪府教育委員会から、昭和五六年四月にブラジルのブエノスアイレスに派遣された訴外岡本赳夫、昭和五六年四月にリオの日本人学校に派遣された訴外郡山基彦(以下「郡山」という)及び昭和五八年四月にペナンに派遣された訴外真野隆夫に対しても、同様にしており、郡山がリオの日本人学校に赴任し、引つ越し荷物を送るということであつたので、望月、石切山及び高嶺に対する土産物をことづけたことがあること、原告が郡山に石切山、高嶺及び望月に対する土産物をことづけたのは、原告がこれらの人に大変世話になり、また、これらの人が日系人で日本食を非常に懐かしがつていたことが記憶にあつたためであり、また、通常の方法で土産物を送ると高率の関税のかかることがあるためであること

(二) 原告らのように海外へ派遣された教師らの間では、国情の違いなどから、後に派遣される教師に対して、自己の経験等をふまえて何らかのアドバイスをしたいとの気持を持つており、昭和五三年四月から昭和五六年三月までの間福井県からリオの日本人学校に派遣されていた訴外林由紀夫(以下「林」という)は、リオに滞在中、三重県から小林某(以下「小林」という)がリオの日本人学校へ派遣されることを知り、小林とは一面識もなかつたが、自分の妻が三重県の出身であるとの理由のみで小林に対して手紙により、リオの事情等を知らせると共に更に知りたいことがあれば連絡するよう伝えたこと、又帰国した教師が、赴任する教師に、現地の人に対する土産物を託することはままあること

がそれぞれ認められる。

右認定の事実に照らせば、前示原告が被告に対して架電したことは、何ら不自然なことでもなく、被告に対して何らかのアドバイスをしあるいは土産物を託そうとしたためであり、それ以上に何らかの企図があつたものとは認められない。

(三)(1) 被告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、被告は、昭和五八年八月二一日、捜査官に対し、原告にけん銃を手渡した旨の供述をしたが、これを聞いた捜査官は、急拠原告のそれを含んだ約一〇枚の写真を持つてきてどれが原告であるかについて被告に指示させたところ、被告は、原告の写真を選択したこと、又被告は、捜査官に対し、原告が自宅を新築したことを供述したことが認められる。

そして被告は、原告とはけん銃受け渡しの時を除いては会つたこともないのに右のとおり約一〇枚の写真の中から原告の写真を選択したこと及び原告が自宅を新築したことを知つていることは被告主張事実が真実であることの証左である旨主張する。

(2) <証拠>によれば、

(イ) 訴外相次公一(以下「相沢」という)は、昭和五三年四月から昭和五六年三月までの三年間、リオの日本人学校の校長として派遣されていたこと、そして相沢は、写真は直ちに整理してアルバムに貼付し、写真の下に、映つている人物の名や場所などを書き入れ、このアルバムを自宅の居間の本棚に保管していたこと、右アルバムには、原告が映つている写真も貼付されていたこと

(ロ) 被告は、訪伯直後約一週間をホテルで生活し、その後なお気にいつたアパートが見付かるまでの約二週間を、相沢宅で生活したこと、相沢は、新任の教師にブラジルの諸事情を早期に理解させる目的で、自己のアルバムを見せることを習慣にしており、又、その際、新任教師と同郷の教師が映つている場合にはその教師の紹介をしたりしていたこと、相沢は、被告にもアルバムを見せたが、被告はあまり関心を示さなかつたこと、

(ハ) 又、リオの日本人学校には、原告が映つている昭和五三年度の入学式及び卒業式の写真の貼付されたアルバムが、教師であればだれでも閲覧しうる状況で保管されており、又同校では、「AMIGO」と題する文集を発行してこれを保管しているが、これには担任教師と生徒が一諸に映つたクラス毎の写真が掲載され、原告のクラスの生徒とが映つた写真も掲載されていること

(ニ) 昭和五四年四月から、リオの日本人学校に、神奈川県から派遣された原告と同姓の訴外滝多賀雄(以下「滝」という)が教師として勤務していたところ、原告が帰国後も学校内で原告のことが話題になることが多いため滝のことを「神奈川の滝先生」、原告のことを「大阪の滝先生」と呼んで区別していたことがそれぞれ認められる。

右認定の事実及び前示(二)(1)認定の事実、特に被告が、ブラジルに赴く直前に、一面識もない原告から突然電話されていることに照らせば、被告は、当然原告に関心を抱き、写真によつて原告を確認していたものと推認される。したがつて被告が約一〇枚の写真のなかから原告の写真を選び出したからといつて何ら被告主張事実の被告の供述は真実性を裏付けるものとはいえない。

(3) <証拠>によれば、原告は、昭和五四年に肩書住所地に土地を購入して、同年末同所に自宅を新築し、昭和五五年三月に転居したが、その転居通知をリオの日本人学校宛や石切山、高嶺及びリオの日本人学校の当時の教師の一部に宛てて送つたことが認められるところ、前示原告から被告に対する電話の内容、右転居通知がなされた事実や前示リオの日本人学校内で原告帰国後も原告のことが話題にのぼつていたことなどに照らせば、被告は、原告が自宅を新築した事実を知つていたものと推認される。したがつて被告が捜査官に対して、原告が自宅を新築したことを供述したことをもつて被告主張事実あるいは被告の供述の真実性を裏付けるものとはいえない。

(四)(1) ところで、被告は、本件銃包の密輸の動機に関連して、望月からけん銃を持ち帰えつてくれれば往復の旅費を出してやると持ちかけられ、ホームシックにかかつていたこともあつてこれを承諾した旨主張し、被告本人もその旨及び日本へ帰りたい旨を望月や同僚の教師らに話していたところ、望月から結婚を理由にすれば一時帰国ができる旨教えられかつ本件銃包の密輸を依頼された旨供述している。

(2) しかし<証拠>によれば、被告は、昭和四七年ころ被告の両親が離婚し、以後、母によつて育てられ、この訪伯まで母親と離れて生活したことはなかつたが、二年半の間、特別の事情のない限り帰国できないことを充分に了解したうえ赴任したものであること、又被告が一時帰国するまでの間、外見上被告がホームシックにかかつているような様子は見られず、又望月や同僚教師らは、帰国したいとの話は聞いていなかつたことが認められ右認定に反する被告本人の供述部分は前掲各証拠に照らしてたやすく採用しえない。

(ロ) <証拠>によれば、望月から被告に対して、一時帰国の往復旅費は支払われていないことが認められる。この点につき、被告は、一時帰国後リオに帰任した昭和五六年一月二〇日これから約一か月後、望月から借りていた電話の件で望月と紛争が生じ、又一時帰国の際望月から頼まれていたニコンのレンズを買つてこなかつたことなどから望月とは不和状態となり、そのため往復旅費を支払つてもらえなかつた旨供述している。

しかし<証拠>によれば、リオの被告宅には、一時帰国以前には電話は架設されていなかつたこと、望月は、昭和五六年六月三〇日、ブラジル電話公社との間で「電話事業投資の支払い契約」を締結して自宅に電話の架設を受けることとなつたこと、しかし望月が既に自宅に他の電話を架設していたことから、被告がこの電話を借り受けることとなり、望月が同年一〇月八日ブラジル電話公社との間で、リオの被告宅に右電話を設置する旨の変更契約を締結しそのころ右電話がリオの被告宅に架設されたこと、そして被告は、昭和五七年三月まで電話を借りていたことが認められ右認定に反する被告本人の供述部分は前掲証拠に照らしてたやすく採用しえず他に右認定を覆すに足る証拠はない。

(3) ところで、前(1)の本件銃包密輸の動機に関連する被告の主張や供述又(2)記載の被告の供述は、その内容からして前示被告の捜査官に対する供述や報道機関に対する供述と真実性において不可分一体の関係にあるものというべきところ、右認定のとおり被告が一時帰国前にホームシックにかかつていた様子は見られず、又望月や他の同僚教師らが被告から帰国したい旨の話を聞いていたとの事実も認められずこれらの点に関する被告の供述部分は信用しえず、又右認定のとおり一時帰国前にリオの被告宅には電話は架設されておらず、被告が望月から電話を借りたのは、被告がリオへ帰任後の昭和五六年一〇月であつて、リオに帰任した約一か月後である同年三月ころに望月から借りていた電話を原因とした紛争が生じたとはとうてい考えられず、かえつて右電話を借り受けた時期に照らせば、被告がリオへ帰任後も、望月と被告の関係が不和状態にはなかつたことを示しているものであつて、望月との関係が不和状態となり約束した往復旅費を支払つてもらえなかつたとする被告の供述は矛盾撞着し信用しえず、この点についての被告の前記主張は採用しえない。

(五) 又証人林由紀夫、同望月雅臣の証言によれば、林は、昭和五三年四月から昭和五六年三月まで、リオの日本人学校に派遣教師として勤務し、原告とも面識があり、又ポルトガル語が話せることから、望月とは、毎日のように逢うなど当時のリオの日本人学校の職員のなかでは最も親しい関係にあつたことが認められる。

このように、望月は、被告の一時帰国当時、林と大変親しく、したがつて、望月は、林が昭和五六年三月に帰国することを当然知つていたはずであり、一方被告は、当時訪伯後三、四か月を経たところであつて望月ともそれ程まで親密な関係にあつたとは認められないところ、望月が、右のような親密な関係にある林ではなく、右程度の関係にあつた被告に対してわざわざ往復旅費を出してまでわずか三か月はやく三丁のけん銃の密輸を依頼しようとしたとするには払拭しえない疑問が残るところである。

(六) <証拠>によれば、原告は、ボルトガル語を解せなかつたため、原告の子供が病気をした際などに、望月に世話になつたりしたが、それ以外は、望月に写真の現像や焼き付けを依頼したり、また、原告の子供と望月の子供が現地の同じ幼稚園に通園していたという関係がある程度で、望月とは、特別親しい関係ではなく、他の派遣教師と同程度の交際であつたこと、また、原告は、昭和五四年三月に帰国後、望月に対し昭和五五年及び昭和五六年の年賀状を出したことがあるが、このうち、前者は着いたが、後者は受け取り人が宛所に尋ねあたらないという理由で差出人戻しとなつており、原告は、昭和五五年の終わりごろ望月の住所を知らなかつたことが認められる。

右認定のようにそれ程親密な関係でもなかつた原告と望月との間でけん銃等の密輸がなされるとは考え難く、仮に被告の捜査官らに対する供述が真実であると仮定すると、原告は、望月との間でけん銃に関して確実な連絡をとり被告が昭和五五年一二月二七日には日本に帰国していることを知つていたものと考えられるところ、何故にけん銃の受け取りをそれから約二週間後の昭和五六年一月一〇日まで遅らせたかの疑問が生ずるところであり、更に右認定のとおり被告が一時帰国した当時、原告は望月の住所を知らなかつたものであるから、右当時原告と望月との間で何らかの接渉があつたものとはとうてい考えられない。

(七) <証拠>によれば、

(イ) 被告は、訪伯直後から、けん銃に非常に興味を示し、望月にブラジルではけん銃が容易に入手できるのかなどと聞いたり、同人に案内してもらつてデパートでけん銃を見たりしており、又滝に対し、けん銃についての雑誌を見せたりけん銃一丁が日本では三〇万円で売れるとか、けん銃を買つて家宝にするなどと述べていたこと、そして昭和五五年一一月末か一二月初旬ころ、被告は、望月に通訳、案内を依頼してリオのプラッサマウアへ赴き、そこでけん銃二丁と実包二〇〇発を買い入れたことまた、被告は、一時帰国以前には自宅に電話を持つていなかつたため、リオの日本人学校に被告にあてて国際電話がしばしばかかつていたこと、そのうちの少なくとも一回は、男性からのものであつたこと

(ロ) 被告は、昭和五五年一二月二七日、結婚の名目で日本に一時帰国し、その際、本件銃包を密輸入したが、そのころ、リオの日本人学校のまわりでも被告がけん銃を密輸したのではないかという噂が流れ、滝らは、望月を呼んで事情を聞いたところ、望月は、被告がけん銃を買う際に通訳してやつたが、日本に持ち帰つたかどうかについては知らない旨を答えたこと、被告は、帰国後、右けん銃と実包を自己の母と姉に見せ、ブラジルの領事館の依頼で神戸の海上保安庁に持つていく物であると説明したこと、昭和五六年一月一〇日、被告宛に電話があり、被告の母親がこれを受けたこと、当時、被告は、素人でも暴力団事務所にけん銃を売りに行けば、暴力団はこれを購入するものと考えていたこと

がそれぞれ認められる。

(八) そして、原告は、昭和五六年一月一〇日(土曜日)は、午後六時ころまで前記東丘小学校で仕事をし、同日午後九時一〇分から四五分まで自宅でNHKテレビの「音楽の広場」という番組を視聴し、午後一〇時一五分から同テレビの「ルポルタージュ日本」という番組を若干視聴した後、就寝した旨を供述するが、右供述は、当時の新聞(乙第二号証)によつては知りえない事柄(具体的な場面)を含んでおり、きわめて信用性が高く、原告は、昭和五六年一月一〇日午後九時ころから一〇時すぎころまで兵庫県川西市の自宅にいたことが認められる。

又原告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、原告は、昭和五八年八月二二日、逮捕され、以後身柄を拘束され、この間、同年九月一一日に処分保留で釈放されるまで警察、検察庁において厳しい取り調べを受けたが、終始一貫して否認したこと、また、原告は、釈放後、自己の潔白を証明するため、いろいろの調査活動をし、また、被告を名誉毀損として告訴し、これが昭和六一年七月二五日嫌疑不十分で不起訴処分となると同年八月に該当検察審査会に右不起訴処分の当否の審査の申し立てをし(同月二六日不起訴相当の議決)、又大阪弁護士会に人権救済の申し立てをし、あるいは大阪府議会の警察常任委員会において本件を取り上げてもらつたりなどしたことが認められる。

3  以上説示したところを総合すれば、被告の主張はとうてい採用しえず、被告の捜査官に対する供述及び報道機関に対する供述が、虚偽であることは明らかであり、これを真実とする被告本人の供述部分はとうてい信用できない。

そうすると、被告が捜査官に対して前示のとおりの供述をしたことは、原告に対する不法行為に該当するものといわなければならない。

四被告が、報道陣の前で原告主張の供述をしたことは、当事者間に争いがなく、したがつて、被告は、右供述が報道されることを認容していたことが推認できるし、<証拠>によれば、昭和五六年九月六日付けの朝日新聞、読売新聞、毎日新聞及びサンケイ新聞の各朝刊に、右被告の供述が大きく報じられたことが認められ、右供述は、原告主張のとおり、原告の社会的評価をさらに低下させるものであると認められるものである。そうして、右供述が虚偽であることは、前示二項認定のとおりである。

五以上の被告の行為は、日時は異にするものの実質的全体的に観察すれば一個の不法行為と評価しうるものである。そして、右被告の行為によつて原告が被つた前示認定の損害のうち、原告の名誉侵害について、これの回復を図るためには、前示原告の経歴、その侵害がなされた態様に鑑みれば、主文一項のとおりの謝罪広告をなすことを命ずるのが相当である。

そうして、右名誉毀損及び原告がその身柄を拘束されたことにより原告が被つた損害を回復するための慰謝料は、すでに述べた一切の事情と右謝罪広告の掲載を命じたことに勘案すれば、金二〇〇万円が相当である。

なお、原告は、証人望月雅臣に支払つた旅費及び滞在費も前示被告の不法行為による損害である旨主張する。証人望月雅臣の証言によれば、同証人はブラジル連邦共和国に在住している者であることが認められるところ、同証人に対する尋問は、ブラジル連邦共和国の裁判所に嘱託することにより可能であり、現に当裁判所は同証人に対する尋問を右裁判所に嘱託する旨を決定したところ、原告において同証人を本邦に呼び寄せたものであり、原告が同証人の本邦までの往復旅費や滞在費を支払つたからといつて、右は、本件被告の行為との間に相当因果関係を認めることはできず、失当である。

そして、原告が本訴の提起追行を弁護士である原告訴訟代理人らに依頼したことは本件記録上明らかであるところ、本件訴訟の性質、認容額など一切の事情を総合考慮すれば、弁護士費用として被告の負担すべき額は、金一〇〇万円を相当と認める。

第二反訴について

原告が被告主張のとおりの本件本訴を提起した事実は、当事者間に争いがない。しかし、原告が本訴の請求の理由とするところの被告の供述はいずれも虚偽であるとの主張が認められることは、前示のとおりであるから、これを理由として原告が本件本訴を提起したことは全く正当な行為であつてなんら違法のそしりを受けるべきところはなく、したがつて、被告の反訴請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がない。

第三結論

以上によれば、原告の本訴請求は、主文一項の謝罪広告を求める部分並びに慰謝料及び弁護士費用として金三〇〇万円及びこれに対する不法行為の日の後であることが明らかな昭和六二年一〇月九日から支払いずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で理由があるからこれを認容し、その余は失当であるからこれを棄却し、被告の反訴請求は、理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官寺﨑次郎 裁判官渡邊雅文 裁判官杉田友宏は、転補につき、署名捺印することができない。裁判長裁判官寺﨑次郎)

別紙一 謝罪文

私は、昭和五八年八月捜査機関に対し「望月雅臣氏に依頼されて、貴殿にけん銃三丁及び実包一〇〇発を手渡した」旨虚偽の供述をなし、そのため貴殿が逮捕勾留され、又同年九月五日報道機関に対し「貴殿にけん銃三丁及び実包一〇〇発を渡した」旨虚偽の事実を述べ、これらが新聞等で報道され、これらにより貴殿の社会的信用と名誉を著しく傷つけました。

よつてここに深くお詫び申し上げます。

昭和  年 月 日

武田一馬

瀧健三殿

別紙二 謝罪文

私武田一馬は、昭和五五年一二月赴任中であつたリオデジャネイロの日本人学校から一時帰国した際、けん銃三丁と実弾一〇〇発位を密輸入したことに間違いありません。

私は右の件によつて、昭和五八年八月一六日大阪府警捜査四課に逮捕され密輸入した事実は認めましたが、けん銃等の処分先については、捜査四課の厳しい追及を免れるため、「私より以前に右日本人学校に赴任したことのある瀧健三氏(昭和五八年八月当時、豊中市教育委員会指導主事)に渡した」旨虚偽の供述をしてしまいました。

このため貴殿は大阪府警に逮捕された後、無実の罪で二〇日間勾留され、精神的にも肉体的にも重大な打撃を受けることとなりました。

また私は同年九月五日処分保留のまま釈放された際、報道機関の方々に対し、「私は間違いなく瀧さんにけん銃と実弾を手渡した」と述べたため、これがテレビや新聞等により広く報道され、さらに貴殿の社会的信用と名誉を甚だしく傷つけるところとなりました。

私は、私の捜査官および報道機関に対する各供述のうち、貴殿に関する部分は全くの事実無根であることを認め、これを本紙面において取り消すとともに、深く反省し貴殿に対し衷心から謝罪いたします。

昭和  年 月 日

武田一馬

瀧健三殿

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